【ネタバレあり】「天気の子」ストーリー考察。覚悟が必要な作品です。

 

らっしゃい、ヨコスケ(@yokosuke_game)です。

 

先週末、新海誠監督の最新作「天気の子」を観てきたので、早速、ネタバレありの感想を書いていく。

なお、「映像が綺麗だった」とか、「RADWIMPSの音楽が良かった」とか、そんなの当たり前なので、敢えて触れることはしない。主に、ストーリーの考察を中心にして、「私はこう思った」「私はこう感じた」という話をしたい。

 

ヨコスケ
映画を鑑賞済みの人だけ読んでください。

 

単なるボーイミーツガール作品ではない。

今作の主人公・帆高は、実家のある離島を抜け出し、1人で東京に出てきた高校生である。

この設定だけ見ていると、東京に憧れを抱く前作のヒロイン・三葉を彷彿とさせるが、バックボーンの描き方が全くと言っていいほど違うことに気がつく。

 

前作の場合、三葉が抱えている悩み・葛藤はかなり明確に描かれていた。

田舎独特の狭いコミュニティ、古いしきたり、父親との関係性…等々。なぜ、田舎に嫌気が差しているのかをはっきり描くことによって、東京に憧れを抱くようになった理由が観客にはっきりと伝わるように作られている。

 

このように、前作は、主人公たちに強烈なスポットを当てることで、「瀧と三葉の物語」という点を鮮明に打ち出していた。

だからこそ、ほとんどの人が、「君の名は。」のことを “ボーイミーツガール作品” と評するわけで、私もそう思う。

 

しかし、今作は違う。

なぜ家出をしたのか、なぜ実家のことを嫌っているのか、なぜ東京に出てきたのか、その理由が全く分からない。理由が分からないから、帆高が何に対して悩みを抱え、何に葛藤しているのかが観客には伝わらない。だから、観客は、帆高の生い立ちや家庭環境を勝手に想像するしかない。

 

陽菜も同様である。作中において、なぜ凪と2人で暮らしているのかが分からない。

母親を亡くしたことについて少し触れるシーンもあるが、父親はどうしているのか、他に頼れる親戚は居ないのか…など、陽菜を取り巻く家庭事情が語られる場面は全くない。だから、観客は、陽菜が年齢を詐称してアルバイトをしている情報などを頼りに、「おそらく、こうなんじゃないか」と脳内で勝手に補完していくしかない。

 

このように、今作は、主人公たちのことを「家出をした少年」「身寄りのない少女」と、現代社会の病理とも言える部分を映し出した抽象的な存在として、メタ的に表現している。

これは、単に帆高と陽菜に焦点を当てたボーイミーツガール作品というだけではなくて、現代社会に行き詰まりを感じている人が、「これは、私自身の物語だ」「これは、現代の日本人に向けられた作品だ」と、自分自身を作品に投影させるための巧みな導線になっている。

 

人間の支配が及ばないものに対する「無関心」と「寛容さ」

もう一つ。

この作品は、現代社会の病理や異常現象に対して、「無関心」と「寛容さ」を一貫して描いている点に特徴がある。

 

例えば、雨が降り続ける異常気象に対して、人々が興味関心を抱いているシーンはほとんどない。「あー、鬱陶しいなぁ」ぐらいにしか受け止めておらず、異常気象は人々の日常生活の中に自然と同化している。

帆高が、東京に向かう船上にて、突然の大雨の襲来を喜ぶシーンがあるが、これは雨を喜んでいるのではなく、東京が近づいてきたことを喜んでいるだけである。あくまでも、彼の興味関心は、「異常気象」に向けられているのではなく、「東京」に向けられている。

 

それだけじゃない。今作の登場人物たちは、他人が置かれている状況に対しても、同じように無関心を貫く。

須賀や夏美は、帆高に対して家出をした理由を問い質さないし、陽菜も「そうだと思った」と言うぐらいで、それ以上、帆高の家庭事情を聞こうとしない。「無関心」であることによって、他者に「寛容」なのだ。

 

このような登場人物の態度を踏まえて、私は、「天気」や「家庭環境」といった『人間の支配が及ばないもの』に対して、「寛容であること」が作品の大きなテーマになっているように感じる。

そして、これは作品のラストで投げかけられたメッセージと密接に繋がっていく。

 

「覚悟」が必要なラスト。

世界の秘密を知っている帆高には、次の2つの選択肢があった。

  1. 陽菜を犠牲にして、異常気象を解決する。
  2. 陽菜を救い出して、異常気象を放置する。

 

まあ、迷うことなく、帆高は「2」を選ぶんだけど(笑)

 

もっとも、ここまでは観客も納得できる。「なぜ、陽菜1人だけが人柱にならなきゃいけないんだ!」と思うからだ。理不尽なヒロイズムに対する反抗とでも言うべきか。

だから、陽菜のことを救い出そうとする帆高に感情を重ねて、「帆高!行け!」と思わず心の中で叫んでしまう。無事に陽菜を救い出して、グランドエスケープが流れているシーンで、ほろほろと涙を流した人も少なくないはず。

 

だけど、その後、観客は仰天することになる。

何だかんだ言って、世界も救われるんだろ?と思っていたら、全くそんなことはなく、雨が止まなくなってしまって、東京は水没してしまう。一見すると、東京に暮らす人々の生活を犠牲にして、陽菜を救ったような図式になっている。

もっとも、不思議と登場人物たちに悲壮感はない。「東京は元々海だった」「世界は元から狂っていた」などと言って、この状況は正当化されている。あくまでも寛容なのだ。

 

この作品が稀有だと思うのは、ずばりこの部分だ。

 

普通、こういう「セカイ系」の物語の場合、「登場人物の命」と「世界の救済」はトレードオフの関係に立っている。エヴァ然り。まどマギ然り。

誰かの命を犠牲に捧げるという悲劇的なラストの中に「人間の生の美しさ」や「人間の愚かさ」が描写されている。

 

ところが、本作では、雨が降り続ける異常気象に対して、どこかの祈祷師の末裔みたいなおじいちゃんが、「決して異常ではない」と言い放つ。長い歴史から見れば、決して異常な気候ではないと。

このおじいちゃんの言い分に従うのであれば、せいぜい100年ぐらいのスパンでしか物事を見ていない人間が、一方的に「異常」と決めつけているだけということになる。

 

ここで、観客は「おや?」と思う。「この作品は、悲劇的なラストを描こうとしているわけではありません」というメッセージを暗に示しているからだ。

 

もし仮に、東京が水没するラストを「悲劇的」と捉えるのであれば、帆高はとんでもない自己中野郎ということになる。

(知らなかったとはいえ)陽菜の命を利用して、晴れ女の仕事をさせておきながら、陽菜の身が危ないと知るやいなや、今度は、天気を犠牲にして陽菜の保身に走る。周囲のことを全く顧みない身勝手な主人公に映っても仕方ない。

 

しかし、これを「悲劇的」ではなく、「元からこういう世界だった」と捉えると、意味が変わってくる。「世界の救済」と「陽菜の命」はトレードオフの関係には立たず、陽菜の命を犠牲にしなければならない必然性はなくなるからだ。

つまり、帆高と陽菜を救うための唯一の方法は、ありのままの世界を受け入れる「寛容さ」と「覚悟」を持つことである。そのように解釈して初めて、この作品のラストを「帆高と陽菜の希望の未来」と受け止めることが出来るのだ。

 

私は、新海誠監督のメッセージに対して、「もののけ姫」に近いものを感じた。

故郷を追われたアシタカ、シシガミの森というアイデンティティを失ったサン。その2人が希望の未来に向かって笑顔と言葉を交わす。過酷な運命に抗いつつも、その運命を受容しようとする「覚悟」が垣間見えるシーンだが、本作の帆高・陽菜にも近しいものがあるように思う。

 

さいごに

新海監督は「秒速5センチメートル」を制作したとき、次のようなことを考えていたらしい。

登場人物たちを美しい風景の中に置くことで「あなたも美しさの一部です」と肯定することにより誰かが励まされるのではないかと思っていたが、「ひたすら悲しかった」「ショックで座席を立てなかった」という感想がすごく多く、その反省から第3話のラストを補完するかたちで『小説 秒速5センチメートル』(メディアファクトリー、2007年11月刊) を書いた。

wikipediaより引用)

 

これは、表現者としての慢心や傲慢だと思う。

映像として美しいと感じるのと、そこに描かれている人間を美しいと感じるのは、明確に違う。そこを同列に論じる観客なんて居ない。

 

ここでの新海誠監督の反省は、「言の葉の庭」で活かされ、「君の名は。」で大きく開花し、「天気の子」で結実したと思う。

私は、単に映像が美しいとか、音楽が美しいとか、そういう表層的なものではなく、本当にこの作品を美しいと思った。

 

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